G266. hamartia 罪

第二版による

 罪は、単数の罪と複数の罪があります。それとともに、違反と訳されることもある別の原語が罪を表す語として使われています。法的な罪もあります。訴訟理由も罪と訳されることがあります。

 罪を赦すという場合は、すべて複数です。罪の赦しに関しては、すべて犯された罪を対象にしています。

 単数の罪は、人のうちの肉のうちに住む罪のことです。律法に反する律法を持っていて、肉を支配しています。人が肉に従う時、すなわち、罪に支配される時、罪を犯す可能性があるのです。

 また、単数の罪は、罪の概念を示す場合にも使われています。

 また、犯された具体的な罪で、一つの場合には、単数になっています。

 世の罪を除くという場合には、単数です。

マタイ

1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪(複数、冠詞付き)から救ってくださる方です。」

 罪全体からの救い。

3:6 自分の罪(複数、冠詞付き)を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

 罪全体。

6:14 もし人の罪(罪過:複数、冠詞付き)を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪(罪過:複数、冠詞付き)をお赦しになりません。

 罪過全体。この罪は、「罪過;真実と直なことからの堕落または逸脱」であって、違反と訳されています。罪と訳されている語とは別の原語が使われています。

9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪(複数、冠詞付き)は赦された。」と言われた。

 犯した罪全体。

9:5 『あなたの罪(複数、冠詞付き)は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

 犯し巽全体。

9:6 人の子が地上で罪(複数)を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

 犯した罪を赦す。

12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。

 「罪にならない」は、有罪とされるという動詞。

12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。

 動詞です。

12:31 だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。

 「どんな罪」は、どのような種類の罪を意味していて、文法上複数では数えない。冒涜も同様。

12:37 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」

 動詞です。

12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

 動詞です。

12:42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

 動詞です。

18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

 動詞です。

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 動詞です。

23:32 あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 「罪」は、補足。

26:28 これは、わたしの契約の血です。罪(複数)を赦すために多くの人のために流されるものです。

27:3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、

 動詞です。

27:4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。

 「罪のない」という形容詞。

マルコ

1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪(複数)が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。

1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪(複数)を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪(複数)は赦されました。」と言われた。

2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪(複数)を赦すことができよう。」

2:9 中風の人に、『あなたの罪(複数)は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

2:10 人の子が地上で罪(複数)を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪(複数)も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。

3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

 動詞です。

8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

 「罪の時代」の罪は、罪深いという形容詞。

11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪(複数冠詞付き)を赦してくださいます。」

 「罪」→罪過。罪過の全体すなわち全ての罪過。

14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。

 「罪」は補足。

16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 動詞です。

ルカ

1:77 神の民に、罪(複数)の赦しによる救いの知識を与えるためである。

3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪(複数)が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。

5:20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪(複数)は赦されました。」と言われた。

5:21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪(複数)を赦すことができよう。」

5:23 『あなたの罪(複数)は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。

5:24 人の子が地上で罪(複数)を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

6:37 さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

 「罪に定める」は、動詞です。

7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪(複数)は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

7:48 そして女に、「あなたの罪(複数)は赦されています。」と言われた。

7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪(複数)を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

11:4 私たちの罪(複数)をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

 罪に定めるは、動詞です。

15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

17:3 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。

17:4 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

「罪を犯す」は、動詞です。

23:4 ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。

 「罪」は、「何も」で修飾されているので、単数になります。「罪」は、訴えの理由のことで、法的な訴訟理由。

23:14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

 「罪」は、訴えの理由のことで、法的な訴訟理由。「この」(あなた方が訴えているような)という語で修飾されているので、特定の一つの罪です。

23:15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。

 『死罪に当たること」死に値することという意味。罪を意味する語はありません。また、「何一つ」で修飾されているので、単数になります。

23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 死に当たる「罪」は、「何も」で修飾されているので、単数になります。「罪」は、訴えの理由のことで、法的な訴訟理由。

24:47 その名によって、罪(複数)の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

ヨハネ

1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪(単数冠詞付き)を取り除く神の小羊。

 これは、「内住の罪」のことです。ヘブル書九章二十六節と同じく、信者の清めのために内住の罪を無力としたことです。世のものを求める罪を取り除くのです。

 内住の罪は、いつでも働こうとしますが、キリストの血は、良心を清め、神に仕える者とします。

5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

 罪を犯すは、動詞です。

8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 罪のないは、形容詞です。

8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 罪に定めるは動詞です。

8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

 罪に定める、罪を犯すは、動詞です。

8:21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪(単数冠詞付き)の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」

8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」

8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。

 内住の罪に従って生きて死ぬこと。

 イエス様がここで、「罪の中で死ぬ」と言われたのは、彼らがこの世のものであって、天のものを求めることがない態度について指摘しているのです。イエス様が行くところは天です。天のものを求めない彼らは、イエス様が行かれるところに行くことができないのです。それは、彼らがこの世のものを愛しているからで、肉に支配されているからです。彼らがこの世のものであり、イエス様は天に属する話をされたのは、そのことです。

 彼らは、イエス様を探しはます。しかし、彼らは、天のものを求めないで、罪に支配されたまま、この世のものを求めるのです。

8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪(複数冠詞付き)の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪(複数冠詞付き)の中で死ぬのです。」

 前節と同じ「罪の中で死ぬ」ことを言われましたが、前節では、内住の罪に従うことで、彼らが死ぬと言われました。そして、彼らが死ぬのは、彼らが内住の罪に従って生きることで、実際罪を犯すからです。内住の罪のために裁かれることはありません。具体的に罪を犯すので裁かれるのです。

 その結果、彼らは、イエス様を信じないならば、罪全体が赦されないで、永遠の滅びを刈り取るのです。彼らは、天に行くことができないのです。イエス様を信じなければ、全ての罪が赦されないで、滅びるのです。

 罪の中で死ぬとは、犯した罪が赦されずに、裁かれることを表しています。

 ちなみに「私のことを信じる」とは、「わたしはあるであることを信じること」です。すなわち、イエス様を存在者であること言い換えるならば神であることを信じることです。

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪(単数冠詞付き:具体的な一個の罪)を行なっている者はみな、罪(単数冠詞付き:内住の罪)の奴隷です。

 罪を行っている者とは、今罪を行っている者のことで、過去に罪を犯したということではありません。その罪を行っている今の状態は、罪の奴隷であるということです。前の罪は、犯罪行為を表し、一つの罪を犯している状態です。後の罪は、人のうちの肉のうちに住む罪のことです。犯罪としての罪は、結果であって、それが人を支配することはないからです。人のうちに住む罪によって支配されているのです。

8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪(単数)があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

 特定の罪を犯しているという表現ではなく、「罪に関して私を論破することができる者がいますか。」という意味の表現です。ここでは、罪の概念。

9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

 罪を犯すという動詞。

9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪(複数)の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。

 罪を犯した父母の影響を受けて、盲目に生まれていることが明らかなのにという意味。

9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪(無冠詞)はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪(冠詞付き、単数)は残るのです。」

 最初の「罪」が無冠詞であるのは、罪がないという否定形であるからです。罪がないという場合は、特定の罪を指してはいないからです。しかし、後半の「罪」は、冠詞付き、単数です。人のうちに住む罪についてもこの形が用いられます。目が見えるとは、神の御心に適って歩んでいるという意味です。ここで問題とされているのは、神の御心に適って歩むという点です。律法によっては、その点は解決されません。キリストに対する信仰が必要です。

 彼らが、自分たちは、神の目に適わない罪人であると考えていたならば、罪を持つことはなかったのです。罪を犯すことはないのです。

 彼らは、今、目が見えるすなわち、神の目に適った正しい者であると考えていました。それで、彼らの内住の罪は、残るのです。

 内住の罪が取り除かれるのは、イエス様の十字架以降です。内住の罪がなくなることではなく、イエス様の血によってその愛によって、内住の罪が働かず、御霊によって完全な者として歩むことができるのです。しかし、彼らは、「今」そのような者だと言っているのです。罪のない者と考えていました。今、内住の罪が働いて、罪の奴隷であることを認めていないのです。イエス様を信じることでそこからの解放があるのです。それを信じないのです。イエス様に対する信仰がないのです。彼らは、内住の罪の奴隷のままでいることになります。

15:22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪(単数)はなかったでしょう。しかし今では、その罪(単数冠詞付き)について弁解の余地はありません。

 否定形で単数です。後の彼らの「その罪」は、信じないこと。

15:24 もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。

 否定形で単数です。

16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

 「罪について」とは、何が罪であるかということについて論じていますので、これは、犯されれた罪のことではなく、罪の概念です。

18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。

 「罪」は犯罪の容疑のこと。法的な罪のこと。それが一つもないという表現で、単数になっている。

19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」

 「罪」は犯罪の容疑のこと。法的な罪のこと。それが一つもないという表現で、単数になっている。

19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」

 「罪」は犯罪の容疑のこと。法的な罪のこと。それが一つもないという表現で、単数になっている。

19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」

 これは、犯された罪ではなく、罪の大小を表現していますので、罪の概念を示しています。

20:23 あなたがたがだれかの罪(複数)を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 後半の「罪」は補足です。原語は、「残す」という動詞だけです。

使徒

2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪(複数)を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪(複数)をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

 犯した罪が赦されて罪がない者とされることを拭い去ると言っている。

5:31 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪(複数)の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。

7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 「この罪」は、彼らがいま犯したその一つの罪であるので単数です。

10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪(複数)の赦しが受けられる、とあかししています。」

13:27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。

 罪に定めるという動詞です。

13:38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪(複数)の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。

22:16 さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪(複数)を洗い流しなさい。』

 キリストに反対していたことを間違っていたこととして表明するのがこのバプテスマの意味です。そして、キリストを信じて従うことを表しています。その結果として、犯した罪が赦されることを「洗い流す」と表現しています。罪のない者とされるということです。

23:29 その結果、彼が訴えられているのは、ユダヤ人の律法に関する問題のためで、死刑や投獄に当たる罪はないことがわかりました。

 「罪」は、告発された罪のことで、社会的な罪のこと。別の原語です。

25:8 しかしパウロは弁明して、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません。」と言った。

 罪を犯すという動詞。

25:15 私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。

 罪に定めるという動詞。

26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪(複数)の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

ローマ

2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

 罪に定めるという動詞です。

2:12 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。

 罪を犯すという動詞です。

 五章十二節から、人のうちに住む罪について論じています。

 三章からは、、犯した罪のことだけが取り上げられています。それが赦させる幸いについて示しています。それは、信仰によって与えられる罪の赦しです。五章前半では、その救いに与った者と神様のとの関係について示していて、私たちに与えられた幸いな立場について示しています。

 五章二十一節からは、その罪赦された信者の歩みについて論じていて、人のうちに住む罪との関わりについて示しています。犯した罪は完全に赦されますが、罪を犯すべきではないことが示されているのです。罪を犯させる機構を明らかにし、罪を犯さないようになるためには、肉を殺して、御霊によって歩むことであることを示しているのです。その上で、私たちが将来栄光を受ける者になることを示し、それを望みとして、御霊による完全な歩みを勧めているのです。そして、御霊の助けがあること、父の助けがあること、そして、キリストの愛があることを示して、そのことを達成するように励ましています。

 ですから、ローマ書の前半と後半の区分は、罪と、罪の赦しによる救いの立場と、罪と信者の歩みという対比になっています。

3:8 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。

 罪に定めるという動詞。

3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

これが人のうちに住む罪を表しているのではなく、罪の全体を表すいわば罪の概念を表している。

3:20 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪(無冠詞)の意識が生じるのです。

 この罪は、名詞ですが、犯された罪ではなく、「意識」が何の意識かを説明するための罪の概念を表している。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 動詞です。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪(複数)を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 犯された具体的な罪のこと。

4:7 「不法を赦され、罪(複数)をおおわれた人たちは、幸いである。

 不法を赦されることと同列に置かれ、罪を覆われたと表現されています。これは、罪を赦されたことを表していて、罪は犯したが、それが赦されることで罪のない者とされることを覆われると表現しています。

***おおう***

ヤコブ

5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 迷い出た兄弟は罪人と呼ばれています。その兄弟を連れ戻すことは、まず、彼のたましいすなわち信仰による歩みを死から(神の前に死んだ状態から)救い出すことであり、犯した多くの罪が赦されて、その罪が覆われることになるのです。悔い改めるならば、その罪は、神の前にも兄弟姉妹にももはや覚えられないのです。そして、その人は、以前のように真理に従い、神の前に生きた者として歩み、実を結ぶことができるのです。一度躓いたら、終わりということではないのです。また、悪いレッテルを貼ってはならないのです。

ペテロ第一4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

 愛は、罪が犯されても、七度を七十倍するまで、赦します。それで、罪が覆われるのです。人が赦すならば、もはや罪ではないのです。

***引用終わり***

4:8 主が罪(単数、無冠詞)を認めない人は幸いである。」

 否定形の場合、罪を一つも認めないという意味なので、単数になります。これは、具体的に犯される罪のことです。

4:25 主イエスは、私たちの罪(複数)のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 この罪は、違反とも訳される異なる原語。

5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、 それというのも全人類が罪を犯したからです。

 アダムによって「罪が世界に」入ったというのは、全世界の人のうちに罪が住んだということです。アダムの犯した罪は、食べてはいけないものを食べたことです。罪が入ったというのは、その後犯された罪のことではありません。この罪のことは、六章まで話が続いていて、そこでは、人のうちに住む罪について当てはめられてます。

 罪によって死が入ったというのは、罪が人のうちに住み着いて、その罪に支配されて具体的な罪を犯したということです。それによって、死んだということです。後半の、全人類に死が広がったことの説明として、その死は、具体的な罪を犯した結果であると示されているからです。

 エバが罪を犯す状況を考えると、神の戒めに逆らうことを決断させる働きが彼女のうちにあったのです。そして、食べることで具体的な罪を犯したのです。ですから、先に罪が世界に入ったのです。そして、その罪に支配されて具体的な罪を犯したのです。

5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪(単数、無冠詞)は世にあったからです。しかし罪(単数、無冠詞)は、何かの律法がなければ、認められないものです。

これが人のうちに住む罪を表しているのではなく、罪の概念を表している。

 

5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。

5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 罪を犯すというのは、すべて動詞です。

5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪(単数、冠詞付き)の増し加わるところには、恵み(単数、冠詞付き)も満ちあふれました。

 違反と罪は、律法に照らして認定された具体的な罪のことですが、単数形が使われています。それは、違反あるいは罪が増し加わるという表現の中で使われているからです。律法によって認定された一つ一つの罪が増えていくのです。あるまとまった数の罪が増えていくのではないのです。それで、単数なのです。

 恵みは、罪が赦されることを表しています。それで、犯された罪が赦されることが増えるならば、その赦しの機会も増えるのであって、恵みも増えるのです。それで満ち溢れると表現されています。

5:21 それは、罪(単数、冠詞付き)が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

 罪は、死によって支配しました。これは、人のうちに住む罪です。罪が死をもたらしたのです。恵みは、義認をもたらしました。これは、賜物としての義ですので、義認のことですが、それとともに、罪と対比されていますので、聖霊に従って義の実を結ぶことも含まれます。その義の実がもたらす永遠の命としての報いについて、言及しています。

6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪(単数、冠詞付き)の中にとどまるべきでしょうか。

 罪の中にとどまるというのは、人のうちの肉のうちにある罪の支配の下にとどまるべきでしょうかと問うているのです。

6:2 絶対にそんなことはありません。罪(単数、冠詞付き)に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

 この罪は、人のうちにある罪のことです。私たちは、罪に対して死んだのです。罪の支配の下に生きることは出来ないのです。

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪(単数、冠詞付き)のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪(単数、冠詞付き)の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:7 死んでしまった者は、罪(単数、冠詞付き)から解放されているのです。

 この罪は、人のうちにある罪のことです。死んだ者は、罪とは関係のない者とされます。古い人は、死んだのです。

6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪(単数、冠詞付き)に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

 これは、キリストの死の直接的な意味を説明しているのではなく、キリストの死と復活が表す信者の歩みに関する霊的な意味を説明しているのです。九節からこの死が十字架の死であることがわかります。パプテスマは、その死を表しています。その死は、内住の罪に対して死ぬことを表しているのです。そして、復活は、罪に対して死んで、神に対して生きている者として歩むことを表しています。

 誤解されやすいですが、キリストが罪に対して死んだのが十字架の時点であるという意味ではありません。また、神に対して生きた者として歩んだということは、十字架後だけでなく、十字架以前のことでもあります。ですから、この罪に対して死んだことと神に対して生きているという説明は、キリストについての直接的な説明ではないのです。

6:11 このように、あなたがたも、自分は罪(単数、冠詞付き)に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 この罪は、人のうちにある罪のことです。罪に対しては、死んだ者と思うのです。罪は、存在しますが、その罪とは、もはや全く関係のない者として生きるのです。

6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪(単数、冠詞付き)の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

 この罪は、人のうちにある罪のことです。死ぬべき体とは、死を免れない体とも訳され、生物的に死んで滅びる体を罪の支配に委ねてはならないのです。つまり、その情欲は、体が生きている間だけのものです。そのように価値のないもののために、その情欲に従ってはならないのです。

6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪(単数、冠詞付き)にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 この罪は、人のうちにある罪のことです。体がその罪に支配されて罪を犯すのです。罪に対しては、死んで、新しく生まれた者として、聖霊に従い実を結ぶのです。

6:14 というのは、罪(無冠詞)はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

 律法と恵の関係について論じるときには、罪に冠詞が付いていません。これは、人のうちにある罪のことではなく、罪の概念を表しています。これは、恵み(無冠詞)の支配と対比されていて、恵みという概念によって表されるものによって支配されているのです。特定の恵みを指していません。

6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 罪を犯すは、動詞です。

6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪(無冠詞)の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

 罪の奴隷は、従順の奴隷と対比されています。従順が特定の、例えば聖霊に従うというようなことを表していないで、従順と呼ばれるあらゆる歩みを表しているように、罪の奴隷の罪が表しているのは、肉にうちに住む罪だけでなく、罪の概念を表しいます。

6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪(単数、冠詞付き)の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、

 「罪の奴隷」は、人の肉のうちにある罪に支配されている状態を言っています。十六節と同じ言い回しですが、対象としている罪が異なります。

6:18 罪(単数、冠詞付き)から解放されて、義の奴隷となったのです。

 「罪の奴隷」は、人の肉のうちにある罪に支配されている状態を言っています。ここには、内住の罪と対比されて、内住の義が示されてます。内住の義という表現は、記されていませんが、内住に罪に対比されています。これは、神の律法を喜ぶ部分です。

6:20 罪(単数、冠詞付き)の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。

 義については自由に振舞うというのは、義には束縛されず、関係ないものとして振舞っていたということです。

6:22 しかし今は、罪(単数、冠詞付き)から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

 「罪の奴隷」は、人の肉のうちにある罪に支配されている状態を言っています。神の奴隷として神に支配されて生きる者とされました。神の支配は、具体的には、聖霊の支配です。そこに歩むことで、清潔に至る実を得るのです。聖潔とは、聖く清い状態です。これは、聖書独自の表現ではないかと思います。一般的に使われる「清潔」とは、意味が違います。そこに至るという表現は、それが目標であることを示していて、結ぶ実がどのようなものであるかを説明しているのです。聖潔な者になるという実を結ぶのです。その行き着くところが永遠の命と示されていますが、その結んだ実に対して報いを受けることを言っています。

6:23 (なぜならば)罪(単数、冠詞付き)から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 これは、福音集会で、犯した罪として語られることがありますが、ここでの意味は、人のうちにある罪のことです。その罪に従ってすなわち、肉に従って生きるなら、その報酬は、死であるということです。それは、良い実を得ることができないという結末をもたらすのです。それを死と言っています。すなわち報いがない状態を言っているのであって、永遠の地獄に落ちることを言っているのではありません。これは、信者に関して語られているのです。対比して、永遠の命は、報いがいただけることを言っています。

7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪(複数)の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。

 数々のそれぞれの罪を犯そうという欲情のこと。

7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪(無冠詞)なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪(単数、冠詞付き)を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

 律法が罪かと論じている時、その罪が表すものは、罪の概念です。人のうちに住む罪のことでないことは明らかです。無冠詞の罪は、罪の概念を表しています。

 後半は、律法が来たことによって、貪るというような律法に逆らう「罪」が内にあることを知るのです。

7:8 しかし、罪(単数、冠詞付き)はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪(単数、冠詞付き)は死んだものです。

7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪(単数、冠詞付き)が生き、私は死にました。

7:11 それは、戒めによって機会を捕えた罪(単数、冠詞付き)が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

 人のうちにある罪は、律法が示されると、それによって機会を捕え、罪を犯させるのです。

7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪(単数、冠詞付き)なのです。罪(単数、冠詞付き)は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪(単数、無冠詞)として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

「それは、むしろ罪なのです。」は、人の内に住む罪です。「罪として明らかにされ」は、これは、七節で律法との関係で論じられている罪と同じで、罪の概念を示しています。例えば、野生動物を飼育していて、それが人を噛み殺したとします。その時、その動物は、野生動物(野生動物という一般的な概念で表されるもの)として明らかにされたと言います。ニュースでそれが報じられるとき、「野生動物が人を噛み殺した。」という事実が伝えられますが、その場合の野生動物は、その動物自身を指しています。野生動物という概念が人を殺すことはないのです。

そして、日本語には訳出されていませんが、「戒めによって(罪は、)極度に罪深いものとなり」は 、人の内に住む罪です。

7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪(単数、冠詞付き)の下にある者です。

 「罪ある人間」は、「肉的なもの」という意味で、「霊的」と対比されている語です。罪の下にある状態が肉的なのです。この罪は、肉のうちに住む罪です。

7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪(単数、冠詞付き)なのです。

 人のうちに住む罪です。冠詞は、離れたところに付いています。

7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪(単数、冠詞付き)です。

 人のうちに住む罪です。内住の罪という表現は、ここから来ています。

7:23 私のからだの中には異なった律法(原理)があって、それが私の心の律法(原理)に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪(単数、冠詞付き)の律法(原理)のとりこにしているのを見いだすのです。

 体のうちにある罪は、心の原理に反する罪の原理を持っています。

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪(単数、無冠詞)の律法に仕えているのです。

神の律法に対比されている「罪の律法」は、これは、個々の人の内に住む罪が持っている律法ではなく、罪という概念に備わっている神に逆らう律法すなわち行動規範のようなものです。先ほどの野生動物の例で言えば、野生動物というものは、弱い動物を殺して食べるという野生の性質を持っているものであるという一般的な野生動物の性質のようなものです。

 神の律法と、罪の律法の関係は、動物の例で言えば、人の律法は、人が決して殺されてはならないというものだとします。野生動物が満ち足りている時には、平和な関係を持つこともできるかもしれませんが、例えば、動物の腹がすくと、人でも襲うのです。野生の性質を捨てない限り、人と共存できないのです。

8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 訳出されていませんが、「肉にはよらず」御霊によるものが罪に定められることはないのです。罪に定めるは、有罪という名詞。

8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 これは、御霊によって歩むことが命であり、肉のうちにあり罪の支配を受けて、肉によって歩むことが死であるという原理です。

8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪(単数、冠詞付き)を処罰されたのです。→「肉において(内住の)罪に処罰の宣告をしました。」

8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 御子を遣わされたのは、罪のためです。これは、罪の赦しのためではなく、信者が罪に支配されないために遣わされたのです。「罪深い肉と同じような」は、「罪の肉と同じような」という意味です。肉は、罪に支配されているのです。しかし、御子は、肉を持たれましたが、肉が罪に支配されることはありませんでした。罪を処罰されたというのは、肉のうちの罪が無力であることを身をもって示し、罪を処罰されたのです。これは、御子を十字架につけて、罪を処罰したという意味ではありません。これは、肉体を持っていても罪の支配を受けることがないことを示して、罪が無力であることを示したのです。すなわち、聖霊によって歩む者は、罪に対しては勝利者であり、律法の要求を全うできることを示したのです。これにより、罪に敗北を突きつけることになり、処罰を宣告したことになるのです。肉においてはとは、実際に弱い肉体を持つ中で、肉の支配を受けない歩みを実現することで、肉に対する勝利を証明できるのです。イエス様に続く信者も内住の罪に支配されない歩みが可能なのです。内住の罪は無力です。

 続く、四節が信者の歩みについて記されていて、信者も御霊によって歩むことによって、罪の支配を受けず、律法の要求を全うすることができることが示されています。

8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪(単数、冠詞なし)のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

 この罪は、義と対比されていて、罪の概念。体が肉に従うなら、死んでいるのです。霊は、キリストがうちにおられることを信じているので、キリストと共に生きるのです。それは、義の歩みであって、生きているのです。同時にその二者が生きることはなく、どちらか一方の歩みが現れるのです。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

 「罪に定める」は動詞。

11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪(複数)を取り除く時である。」

14:23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪(単数冠詞なし)です。

 これは、みな罪であるという表現で、犯した個別具体的な罪のことではありません。また、内住の罪でもありません。罪というものです。

コリント第一

4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

 無罪は、正しいとされるという意味。

6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

 前の罪は、「どのような罪も」で、どのようなという修飾を受けているので、単数になっています。後の罪は、不品行という具体的な罪のこと。

7:28 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。

 「罪を犯す」は動詞。

7:36 もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。

 「罪を犯す」は動詞。

8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

 「罪を犯す」は、二つとも動詞です。

11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

 罪を犯すは、有罪であるという意味で有罪のという形容詞。

11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 「罪に定められる」は、動詞。

14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者がはいって来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、

 「罪を示され」は、「有罪判決を下される」という意味の動詞の受動態。

15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪(複数)のために死なれたこと、

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪(複数)の中にいるのです。

 犯した罪が赦されず、それを負ったままの状態でいること。

15:34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。

 「罪をやめる」は、罪を犯すなという動詞の命令形です。

15:56 死のとげは罪(単数、冠詞付き)であり、罪(単数、冠詞付き)の力は律法です。

 死の凶器としてのとげは、罪です。罪によって死に至らせるのです。すなわち、罪を犯した者は、死ぬのです。その罪を犯させるのが、その人の肉のうちに住む罪です。ここでの罪は、人のうちに住む罪のことです。その罪の力は、律法にあります。律法によって機会をとらえ、罪を惹き起こすのです。

コリント第二

3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

 罪に定めるという動詞です。

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 「罪を知らない」というのは、罪を犯した経験がないという意味です。その場合には、一つの罪も犯さないので、単数になります。複数では、多少は、罪を犯したことがあるということになります。

 「代わりに罪とされ」とは、罪を犯した者とされたという意味で、有罪とされたことです。具体的に罪を犯したのでないので、罪ある者とするということで、複数での表現はできない。

11:7 それとも、あなたがたを高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことが、私の罪(単数)だったのでしょうか。

 個別具体的な罪で、一つの罪であるので、単数です。

12:21 私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。

 動詞です。

13:2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。

 動詞です。

ガラテヤ

1:4 キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪(複数)のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

 私たちの罪は、犯された罪のこと。その罪のためとは、その罪が赦され義とするために、ご自分を捨てられたこと。その目的は、今の悪の世界から私たちを救い出すため。それは、信者が御霊を受けて完全なものになること。

2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪(単数冠詞なし)の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

 罪の助成者は、罪を助けて助長させるもののことです。それは、罪という概念。

3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪(単数冠詞なし)の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

 罪という概念。内住の罪も個別の罪も含まれる。

 肉によっては神の律法を行うことは、不可能であるのです。信仰による義認と、御霊による歩みによって義とされるのです。

エペソ

1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪(複数)の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪(複数)との中に死んでいた者であって、

 罪のために裁きを受けて滅びるものであったこと。

2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

 それらの罪は、関係代名詞です。罪は補足です。「それら」で複数を表しています。罪のために裁きを受けて滅びる者であったこと。

 後半のこの世の流れに従いからは、歩みも、聖霊に従うのではなく、悪の霊の働きによって肉に従っていたということです。これは、悪魔の働きかけによって、人は、罪(人のうちに住む罪)の支配を受けていたということです。

2:5 罪過(複数)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。

 「生かし」は、続く言葉によって、救われることを表していることがわかります。罪のために裁きを受けて滅びる者であったが、そこから救われたということ。

4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

 動詞です。

コロサイ

1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪(複数)の赦しを得ています。

2:13 あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪(複数)を赦し、

テサロニケ第一

2:16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪(複数)を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。

 罪を満たすとは、罪を犯し、その数がある程度に達していること。それに対して、御怒りは極みに達しました。

テモテ第一

5:20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。

 動詞です。

5:22 また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪(複数)にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。

 他の人と一緒になって罪を犯してはならないことが警告されています。

 犯された罪に一切関わるなということではありません。長老であるなら、そのような罪に関わり、処置することも必要です。ですから、ここでの意味は、罪を犯すときその罪に関わりを持つなという意味です。

5:24 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪(複数)は、あとで明らかになります。

テモテ第二3:6 こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪(複数)に罪を重ね、

 実際に犯した罪。

テトス3:11 このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。

 動詞です。

ヘブル

1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪(複数)のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 罪の清めは、贖いの御業の完成のこと。罪ある者が無罪とされる御業のこと。それは、犯した罪が無罪とされること。

2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪(複数)のために、なだめがなされるためなのです。

 犯された罪を引き受けて、なだめがなされるため。

3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪(単数、冠詞付き)に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

 犯された犯罪が惑わすことはありません。その人を惑わすのは、その人の内にある罪です。

3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

 罪を犯すという動詞です。

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 罪を犯さないというのは、「罪なしで」という表現になっています。英語で言うなら、without sin でその場合には、単数になります。

5:1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪(複数)のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。

5:3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪(複数)のためのささげ物をしなければなりません。

7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪(複数)のために、その次に、民の罪(代名詞、複数)のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

8:12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪(複数)を思い出さないからである。」

 いずれも、犯した罪。

9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が「知らずに犯した罪」(複数)のためにささげるものです。

 「知らずに犯した罪」は、一つの単語で複数です。

9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 「罪の赦し」は、一つの単語で、赦しを意味しています。原語に罪という単語は、ありません。

9:23 ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。

9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。

9:25 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。

9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪(単数、冠詞付き)を取り除くために、来られたのです。

 九章は、信者が清められる観点から記されています。未信者が義とされるという観点から記されているのではありません。それで、イエス様がご自身を捧げられたことが、内住の罪を取り除くという観点から取り上げられてます。その血についても、良心を清める働きとして記されていて、罪の代価としての血による贖いの面ではなく、信者の歩みを清める働きについて記されています。

9:28 キリストも、多くの人の罪(複数)を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

 後の「罪を負うためではなく」は、「罪のこととは関係なく」という意味で、罪の概念を表しています。罪とは関係なく救いのために来るということです。

 多くの人の罪(複数)を負うための場合は、犯された罪を負うためで、複数になっています。

10:2 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪(複数)を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。

10:3 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

10:4 雄牛とやぎの血は、罪(複数)を除くことができません。

 完全に罪が赦されることに関して、罪を除くという表現が使われています。

10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、

 いけにえの種類を示すものとして、「罪のための」いけにえとなっていて、この罪は、罪の概念を示しています。

10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪(複数)を除き去ることができません。

 罪が赦されることに関して、罪を除くという表現が使われています。

10:12 しかし、キリストは、罪(複数)のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪(複数)と不法とを思い出すことはしない。」

10:18 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

 いけにえの種類を示すものとして、「罪のための」いけにえとなっていて、この罪は、罪の概念を示しています。

10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪(複数)を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

 後半の「罪」は、いけにえの種類を示すものとして、「罪のための」いけにえとなっていて、この罪は、罪の概念を示しています。

11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。

 これは、「罪に定める」という動詞の単語です。

11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 罪は、楽しみの種類を示すものです。「罪の楽しみ」とは、犯された罪ではなく、その楽しみを実行することが罪であるもののことです。個別具体的な犯された罪のことではありません。罪の概念です。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪(単数冠詞付き)とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 まつわりつく罪は、実際に犯された個別具体的な罪のことではありません。そのような罪は、まつわりつくことはありません。まつわりつくのは、神のことばに従わないように働く肉のうちに住む罪です。それを捨てない限り、競争を走ることはできません。肉にあるなら躓いているのです。

12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

12:4 あなたがたはまだ、罪(単数冠詞付き)と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

 犯された罪と戦うことはありえません。この罪は、その人の肉にうちに住む罪です。戦いは、肉に従って神の真理から外れる歩みをすることに対する戦いです。その際に、実際的に迫害者との戦いがあるのです。真理に従おうとしたら血を流すこともあるのです。迫害を避け、イスラエル社会で平穏に暮らしたいと願うことは、真理に背くことであり、肉の働きなのです。この罪を罪人の反抗と捉えてはいけません。それは、サタンが用いる一つの手段です。その手段によって、人のうちにある肉に働くのです。肉が迫害を避けるように働くのです。この罪は、根本的には、自分のうちに住む罪のことです。

13:11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。

 供え物の種類を示すものとして、「罪のための」供え物となっていて、この罪は、罪の概念を示しています。

ヤコブ

1:15 欲がはらむと罪(単数冠詞なし)を生み、罪(単数冠詞付き)が熟すると死を生みます。

 欲望が過度に膨らむと、内住の罪が働き、具体的に罪を犯します。これは、両方を含めて行っていますので、冠詞が付きません。

 後半の罪は、内住の罪で、それが熟すように支配的になると、御心に適う歩みに背き、死んだ歩みになります。

2:9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪(単数冠詞なし)を犯しており、律法によって違反者として責められます。

 えこひいきするという、個別具体的な罪を一つ犯すということ。

4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

 「罪ある人」すなわち罪人という一つの単語です。

4:17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪(単数冠詞なし)です。

 それは、なすべき正しいことを行わないという一つの罪であるということです。

5:6 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。

 罪に定めるという動詞です。

5:15 信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪(複数)を犯していたなら、その罪は赦されます。

5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪(複数)を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

5:20 罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪(複数)をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 いずれも犯された罪。

ペテロ第一

2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

 罪を犯すという動詞です。

2:22 キリストは罪(単数冠詞なし)を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

 罪を犯さないという否定の場合、何の罪も犯さないという意味で、単数になります。

2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪(複数)をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

3:18 キリストも一度罪(複数)のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。

 これは、罪に支配されている肉に従って歩むこととの関わりを絶つことです。

4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪(複数)をおおうからです。

ペテロ第二

1:9 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪(複数)がきよめられたことを忘れてしまったのです。

2:4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。

 これは、罪を犯したという動詞です。

2:14 その目は淫行に満ちており、罪(単数冠詞なし)に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。

 ひっきりなしの罪。罪という概念。

2:16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。

 バラムの咎。不法行為。

ヨハネ第一

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「全ての」で修飾されているので単数無冠詞。

1:8 もし、罪(単数)はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 否定形なので単数。

1:9 もし、私たちが自分の罪(複数)を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪(複数)を赦し、すべての悪(単数)から私たちをきよめてくださいます。

 すべての悪は、七節のすべての罪と同じ扱いです。

1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 これは、「罪を犯す」という動詞である。

2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。

 これは、「罪を犯す」という動詞である。

2:2 この方こそ、私たちの罪(複数)のための、ー私たちの罪だけでなく全世界のための、ーなだめの供え物なのです。

2:12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪(複数)が赦されたからです。

3:4 罪(単数冠詞付き)を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪(単数冠詞付き)とは律法に逆らうことなのです。

 内住の罪を働かしている者はみな、不法を行なっているのです。内住の罪は、律法を無視することです。

 新しく生まれた人は、罪を犯さないのです。御霊によって歩んでいるからです。そして、内住の罪に死んでいるからです。しかし、御霊によらず、内住の罪が働くままにしていることは、不法です。

3:5 キリストが現われたのは罪(複数)を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

 後半の「罪」は単数。罪がないという表現では、単数になります。

3:6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪(複数)のうちを歩みません。罪のうちを歩む(罪を犯すという動詞)者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 罪のうちを歩むとは、罪を犯すこと。

3:8 罪(単数冠詞付き)のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯している(罪を犯すという動詞)からです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

 内住の罪を働かしている者は、悪魔から出た者です。肉に働きかける悪魔の働きを無力にしたのは、御霊によって歩むからです。内住の罪は働かないのです。しかし、内住の罪が働くままにしているのは、悪魔の働きに従っているのです。ですから、悪魔から出た者であると言っています。

3:9 だれでも神から生まれた者は、罪(単数冠詞なし)のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩む(罪を犯すという動詞)ことができないのです。

・「罪(単数冠詞なし)のうちを歩みません。」→罪を行いません。すなわち、罪を犯しません。否定形で単数。

 神から生まれた者は、罪を犯しません。これは、御霊によって歩んでいる人のことです。肉が働くならば、罪を犯すかもしれません。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪(複数)のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 犯した罪。

5:16 だれでも兄弟が死に至らない罪(単数冠詞なし)を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している(罪を犯すという動詞)人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪(単数冠詞なし)があります。この罪については、願うようにとは言いません。

5:17 不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。

 一つの罪。

5:18 神によって生まれた者はだれも罪の中に生きない(罪を犯すという動詞)ことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。

 神によって生まれた者は、罪を犯しません。これは、新しく生まれた人のことで、御霊によって歩んでいる人のことです。肉によって歩むならば、罪を犯します。しかし、ヨハネの手紙では、そのことは、一生で触れていて、告白することで許されることが記されています。それ以降の内容は、新しく生まれた人のことです。罪を犯さないのです。

ユダ

1:15 すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」

 罪に定めるは動詞。

黙示録

1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪(複数)から解き放ち、

18:4 それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪(複数)にあずからないため、また、その災害を受けないためです。

 「その罪に与る」は、犯された罪に深く関係すること。

18:5 なぜなら、彼女の罪(複数)は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。

 犯された罪。